
Interview
大好きなトライアスロンを追い求めたら
人生が360度好転!
OMG!オージーサラリーマンライフ
なぜオーストラリアに移住されたんでしょうか?
鈴木さん(以下「」内文章は鈴木さん)「何ででしょうね?(笑)
基本的に何かやろうというよりは流れに身を任せてた感じなんです。」
移住される前の日本でのお仕事は?
「JTB。それこそ大企業。だから、いざ辞めるって時には、親も含めいろんな方に“なんで!?”って驚かれました。
特にオーストラリアでの仕事が決まっていたわけではないので、無職で海外に渡るわけですからね。
しかも、小さい子どももいたので…。
結局、そこに至るきっかけは、思い返せば、トライアスロンですかね。」
トライアスロン?
「1990年代前半、大学時代から始めたんですが、まだトライアスロンが世間にあまり知られてない頃で。
当時、『トライアスロンJAPAN』というコアな雑誌があって、それしか情報源がなくて、やってる人はみんなほぼ読んでて。
特別号でオーストラリアのゴールドコーストで開催された世界選手権が特集されていたんです。
チャンピオンが地元の人で、世界中からトップアスリートが集まる場所として大フィーチャーされていて。様々な場所で練習もできるし、大会もあるとか。
これは、すごいなと思って。
当時はバブル崩壊後の就職氷河期で就職に関して悩んでました。というか、何も考えてなかった時代で。特にこれというやりたいものもなくて。
大学4年の時に教授に相談して一年休学したんです。待ったほうが就職の状況もよくなるかもしれないねと。
それでオーストラリアに来たんですよ。
もともと海外に行きたいって意識は全くなかった。
海外へというより、トライアスロンをやりたくて(笑)。
だから当時はワーホリ制度も知らず、ビザが必要なので留学雑誌だけを頼りに語学学校に通いました。
理系だったので英語も得意ではなく、しかも初海外だったんです。
今でも忘れられないですが、空港に迎えが来て、ホームステイ先の家まで送ってもらったんですけど、言葉が全くわからないから、かなりパニクって(笑)。初日の夜に見た夢でも英語に苦しめられてた(笑)。何言ってるかさっぱりわかんないって夢を見て、朝起きて、夢の中でもこれかあって(笑)。」
トライアスロンに取り組む取ってどんな感じだったんですか?
「スポーツジム内にあるアマチュアのトライアスロンクラブに入りました。ランニングサークルみたいなそんな感じです。ただ一応コーチもついて。
毎日、朝練があって、昼間学校に行って、夜練もあって。
土日は休みなんですけど自主トレをして。
水泳はジムのプールで練習して。自転車とランニングは配られたスケジュールに明記された屋外の場所に各自集まって。色んな所で練習してました。
それから数週間おきに行われる週末レースに参加して…っていうのを半年やって。帰って大学4年生で。
理系でしたが、オーストラリアの経験がきっかけで海外に興味を持つようになって旅行業界に就職活動して、運よくJTBに受かったんです。
卒業旅行は、ニュージーランド行ったんですよ。
それもトライアスロン。
毎年3月にニュージーランドでアイアンマンていう大きな大会があるんです。
当時の学生トライアスリートはみんな参加するぐらいの勢いで。
僕も旅行がてらホームステイもして1ヶ月くらい滞在しました。」
「その時に、ニュージーランドで働いてる日本人に、永住ビザ申請があるということを聞いて。
オーストラリアでもニュージーランドでも仕事ができて一生住むことができる。選挙権はないけど、失業保険や健康保険も含めて国民と同じ条件でカバーされると。
JTBでの仕事も海外に行けて、楽しい職場だったのですが、どうしても永住ビザのことが心のどこかに残ってて、いつか申請してみようかなって。
5年くらい働いた後、2000年ぐらいですかね、通ったらその時考えようと申請だけすることにして。
英語のテストを受けたり、提出するまでになんだかんだ1年以上かかりました。
年齢職歴学歴全部ポイント化して合計のポイントが規定値を超えたらビザが下りるシステムなんですが、職業によってポイントが違うんですよね。
僕は旅行会社の営業だったので営業系のカテゴリーで申請したのですが、当時、ITブームでコンピューター関連の需要が高かった。医者もオーストラリアでの需要が高く、ポイントも高くて。」(※注 2000年当時の話で、現在は鈴木さんが取得した当時と取得方法は変わっています)
高い方が受かりやすいんですか?
「そうですね。
自分自身である程度計算できるんだけど、僕はギリギリだった。
いくつかのビザエージェントに仮診断もしてもらって1社から判断は向こう(オーストラリア政府)次第だから結果はわからないけど可能性があるから代行できるって言われたんですね。」
代行業社を通すと、どれくらいの費用がかかったんですか?
「当時で4、50万円でした。でも、結局、代行業社を通さずに自分でやりました。」
どこに申し込むんですか?
「オーストラリア大使館ですね。今は制度が変わってるかもしれません。
制度が頻繁に変わるんですよね。」
参考にした本とかサイトとかあるんですか?
「管理人が永住権をとった経緯を事細かに掲載している『豪州屋便利帖』(現在は閉鎖)というホームページがあって、僕はそれを参考にしました。永住権以外もオーストラリアの情報が満載でとても有益なサイトでした。」
申請後の流れってどんな感じだったんですか?
「結局申請を出して列に並ぶ感じなんです。何度か大使館に問い合わせても、まだ審査自体が始まってないって言われて。
当時、ITブームで先に出してもIT関係者の方が優先されちゃったり。
元々、時間がかかることはわかっていたし、仕事もしてたし、急いではなかったので気長に待ちました。
1年くらい経ってIT優先がなくなったんですね。
その数週間後に連絡が来て、あとは健康診断を受ければビザが下りると。
正式にビザが下りたのが2002年の12月ぐらい。
申請出した時にはもう結婚もして子どももいて。
もし受かったら行こうかって話をしてた。落ちちゃったらそれはそれで縁だからって。」
奥様は海外へ行くことに抵抗はなかったんですか?
「妻とは留学時代に、ブリスベンの語学学校で知り合ってるんです。その後、キャセイ航空に就職して香港で一人住まいだったので、海外生活にはむしろ前向きで。
それより大変だったのは、私の両親でしたね。
申請が通るかわからなかったので親には全く話してなかったんですよ。
親にはビザが下りてからの突然の告白だったので(笑)。
うちの親父は、NTT、昔の電電公社に勤めてて、母親は公務員で、すごい堅い家。
元日本交通公社のJTBに僕が入社出来たのをすごく喜んでいたので、
なんでこんな安定した良い仕事を辞めるんだってえらく怒られました。
しかもその時、三人目の子どもがお腹の中にいたんですよね。
1人目が2歳、2人目がまだ半年くらい。」
ご両親からしたら一番かわいくてたまらない時期ですよね~。
「だからうちの親には猛反対されました。」
ビザが取れてから先のことは考えずに?
「そうですね。あまり考えてなかったですね。
永住権って手続きがめんどくさいし、取得するハードルはとても高い。
地元のオージーと結婚してでも取得するって女性もいるくらい。
だから、逆にビザさえあれば食いっぱぐれることはないだろうって思って。
日本人の観光客もいるし、日系の仕事なら何かしら就けるだろうって思ってたんですよね。」
それで、どうやって今のお仕事に就かれたんですか?撮影コーディネーターって結構レアなお仕事ですよね?
「家を見つけて、最初はちょっとのんびりしようかなって言ってたんですけど、免許の書き換えに必要な書類などを作ってくれる事務所があって、そこにゴールドコーストで有名な名物おばちゃんがいたんですね。その方が今の仕事を紹介してくれて。」
すごい方ですね。
「残念ながら今は日本に帰国されてしまったんですが。とても良い方で。
ちょっと見繕っといたからって、就職先をいくつか紹介してくれて。彼女がそれぞれの会社の概要を説明してくれて、大変だけどここが一番面白いって。それが今の会社だったんです。
ちょっと話聞いてみますって面接受けたんですよ。
テレビや雑誌の撮影のコーディネートなんて日本にいたらこんな仕事に就職することどころか存在さえ知らなかったですね。
言われてみれば海外でメディアの取材や撮影をしたいって時に、取材班が何もないところからいきなりできないですよね。そうか、それをコーディネートする人がいるんだって。」
選んだ理由は面白そうだったから?
「そうですね。オーストラリアに来たからこそ、就けた仕事ですね。
それから、一つご縁もあって。
実はうちの会社が10何年前の『トライアスロンJAPAN』の取材のコーディネートをしていたんですよ。」
↑鈴木さんがオーストラリア行きを決意するキッカケとなった『トライアスロンJAPAN』4月号増刊『トライアスロンGUIDE BOOK'92』。左側が鈴木さんが92年に購入されたもので右側は会社に保管されていたもの。
すごーい!運命的。
「僕も運命だなと思って。
僕にオーストラリア行きを決意させた号が会社のオフィスに見本誌として保存されているのを面接の時に見つけて!
この記事を見たからこそオーストラリアに来て、オーストラリア住みたいと思ったわけなんですが、その本に深く関わっていたのが今の会社なんですよ。」
こちらの仕事は日本の仕事と比べたらどうですか?
「仕事に関しては大変ですね。ハードでしたね。今もハードですけど(笑)。
単純に旅行で海外に来るのと違い、仕事で来るわけですからケアする範囲が広いし細いし。もちろん旅行業の時も社員旅行とかはありましたけど、濃さが全然違いますね。
全てを臨機応変にやっていかないといけないし、そこらへんは日本にいたときの固定概念は壊されましたよね。」
今まで一番大変だったお仕事は?
「全部大変ですけどね(笑)。
最初の頃は自分が慣れてないのもあって大変でしたけど…。
JRAのCMの撮影は大変でしたが、歴史に残るCMという称賛をいただいたほどの仕事で…。」
どんな撮影だったんですか?
「競馬場を借り切って実際、競走馬にレースをさせたんですよ。
競争して走ってるシーンを撮影したいから何頭もの馬を走らせたいっていうオーダーだったんです。
そんなのは常識的に考えたら不可能なんですよ。
通常のレースがあるし、一頭何十万円とか何百万円とかする競走馬を撮影のためだけに走らせるなんてありえない。
でもね、結果良かったのが僕が競馬のこと全く知らなかったんです。多分、競馬やってる人だったらその時点で断ってたはず。
だから、競馬場を押さえて、そこに馬を集めればいいぐらいに思って、そんなことできるわけないって思わなかったんですよね。
ブリスベンのホースレースクラブに協力してもらったんですけど、競馬場もクラブ制で、そこに属する馬主がいて馬がいるんですよね。そこで馬たちがレース形式の練習をするモックレースっていうのがあって、それを撮影したらどうかってことになって。」
↑当時の撮影の様子。
「競争馬はコンディションを保つために、1日1回しか全力疾走させられないんですよね。
そんなことさえ知らず、何頭かいれば何回か走って貰えばいいやってくらいに思ってた。そんなことしたら馬が壊れちゃうよと。怪我したら大変なことになるし。
現地のホースクラブに頼み込んで、ようやくなんとかかんとか、100頭くらい集めて、それを平均10頭づつ10レース撮影するってところまで承諾いただくことができて一安心したんですが…。
僕は日本から撮影隊が入る前日にクラブに直接挨拶に行ったんですよ。
段取り確認しながら最終打ちあわせをして、さあ明日って時に、
会社に帰ったら、今回の撮影は無理ですっていうメールが彼らから送られてきて…。
あれ?さっき話してたときは頑張ろうって言ってたじゃん!って。一気に血の気が引いて冷汗ですよね…。
打ち合わせで撮影を進める上で考えられるマックスを全部言ったので、担当者が怖気づいてしまったんですよね。
日本の撮影クルーが明日やって来てロケハンして撮影まで数日ってタイミングで。
電話してとにかく明日もう一回会おうと。
撮影隊はシドニー経由でブリスベンに着くのがお昼前くらいだったので、その前に朝一で行って、また交渉して。
前回の打ち合わせは全部忘れて君たちが気持ちいいようにやればいい、できないことはできないって言ってくれと。
できることの中で僕ら考えるからと。
ようやく向こうもわかってくれて、事なきを得たんですが。
撮影終了までこんなことがあったなんて、スタッフの誰にも言えなかったです(笑)。
実際、出来上がったCMは、JRAの人や関係者はじめいろんな方から歴史に残るCMでしたってコメントもらってるんですよね。」
色々お聞きしたら面白い話がたくさん出てきそうですね(笑)。
(※他にも、撮影コーディネートのお仕事の超面白い話がたくさんありましたが、お仕事の都合上、割愛させていただきます(笑)。)
オーストラリアの魅力って何ですか?
「子育ての環境がいいですね。いろいろ調べていくうちに子どもの教育環境は日本よりいいのかな。
受験社会とかいじめとかっていうのもあまりないみたいですし。
オーストラリアの学校はどんな感じなんですか?
「もううちの子たちはもう小学校を卒業してるんですけど。
日本の小学校と違ったなと思うのは、教科書がないんですよね。
テストはやってるんでしょうけど、家には持って帰って来ない。はっきり言って何をやってるのかわからないくらい。
子どもたちのノートを見て、こういうことを勉強してるんだなっていうのを知る感じです。
担任の先生の裁量に任されている感じですかね。
もちろん成績表はあるのですけどね。」
教科は日本と一緒なんですよね?
「そうですね。英語算数理科とか。
日本と特に違うなと感じたのは音楽の授業。バイオリンを弾いたりクラリネットを吹いたり。いろんな楽器に触れる機会があるんですよね。
うちの子たちは小学校の中のバンドに入ってたので余計にすごくて。
バンドって言ってもオーケストレーションだったり、合唱だったり本格的で。
サクソフォンとか弦楽器とか家に持って帰って練習してましたね。」
学校にそういう設備が整っている?
「そうです。公立なんですけどね。いいなあと思いましたね。
僕も小さい頃やりたかったなと(笑)。」
授業参観みたいのはあるんですか?
「割といつでも自由に観に行ける。
子ども達の学校が私のオフィスから車で3分くらいだったんですよ。
運動会とか水泳大会とか、何かあると見に行ってました。
一度、娘の授業でアクアスロンがあって。アクアスロンっていうのはトライアスロンのミニ版のような水泳とランニングを組み合わせた、かなりマイナーな競技なんですけど、それを学校の授業でやるんですよね。
校庭にコーンでコース作って走って、プールで泳いで、また走って。
そういうのを保護者も見に行けるんですよ。
小さな頃からそんなことやってたら、そりゃあトライアスロンも強くなりますよね。
他にも、やっぱりサッカーが人気。もちろん野球もやるし。
ラグビーやクリケットだけじゃなくて、スポーツも多種多様。
お国柄というかオーストラリアって移民の国。
イギリス人だけじゃなくて、日本人含めいろんな国から来てるんで、人種に対する偏見がなくはないと思うんですけど、少なくとも日本よりは外国人を受け入れる土壌があって、日本人だからと言って差別されることは基本的にはないんですよね。
白人が一番多いですけど、中国人もいるしタイ人もいるし。
それが子ども達にとっては普通の状況なので。」
授業のやり方も多様性というか型にはまらない?
「そう。はまってない。だから体育以外でも担任の先生の裁量で例えば洪水が起きたら洪水について勉強したり、選挙があったら政治の勉強やるとか。実生活に関わる勉強もフレキシブルに学んでるようでした。」
お子さんのこれからが楽しみですね。
ちなみにですが、英語の習得はどのようにされたんですか?
「そもそもトライアスロンをしに来たので、語学を学びたくて来たわけじゃないんですよ。でも結果それが良かったと思いますね。
英語が話せるのは、武器ではなくて道具というか。極端な話、話せなくても何とかなる。
あんまり英語を話したいとか、語学を学びたいとかってしない方が…。」
むしろ好きなことやりにきたら、話せるようになった?
「そうそう。オーストラリアでトライアスロンやろうと思うとコーチと話をしなければいけないし、同じ仲間とコミュニケーションを取るためには必然的に英語で話さざるを得ない。そこで自然に身につくというか。
もちろん語学学校にも通ったので、そこから得るものもいっぱいあったし両方がうまく噛み合わさってだと思うんですけど。学校もビザの為に通ったわけで、語学習得が目的じゃなかった。
つまり、あまり英語を目的にしない方がいいのかなと。
実際、将来の仕事でも趣味でもいいですけど、何かやる時に英語がメインにならないと思うんですよね。
仕事だったら仕事だし、趣味だったら趣味だし。
英語はその間に入る何か、要はサポートするだけのものであって、英語ができれば何なんでもできるってことではない。
英語を話したいと思う理由、“何で英語を話したいのか”ってことを考えてそれを目標にしたらいいと思います。」
鈴木さんの考える、理想の豊かな暮らし方は?
「家からオフィスまでは車で10分くらい。
子どもたちはもう卒業しちゃいましたけど、通ってた学校は会社から2、3分の場所。なので毎朝、子どもたちを学校に送って出勤していました。
そういうのは東京暮らしではありえなかったろうなと。
そういう意味では、豊かな暮らしを送っていると思います。」
図らずも、自分の好きなこと(トライアスロン)を極めていったら、自然と手に入れることが出来たオーストラリアの生活。奥様との出会い、今ままでは想像もしなかったような面白い仕事、子ども達の素晴らしい教育環境…。
それは、心おもむくままに、人から見たら申し分ない(むしろうらやましい)高給・好待遇の仕事を捨ててまで行動したからこそ得られたわけで。
冒頭に鈴木さんがおっしゃっていた鈴木さんにとっての“普通”ということは“自分の気持ちに素直に生きる”ということなんですかね。
Me(私)Like(らしい)な生き方こそが自分にとっての充実した豊かな暮らしを体現する近道という未来区的な生き方を体現されている鈴木さん。
“特別”を“普通”に変えるパワーの源は、“自分らしさ”なんだと改めて思わせてくれる鈴木さんのインタビューなのでした。
↑C.P. INTERNATIONAL PTY. LTD.の本社オフィスにて、スタッフの大竹崇洋さん(写真左)と。ちなみに今回の写真は全て大竹さんに撮影いただきました。
C.P. INTERNATIONAL PTY. LTD.オーストラリア ラインプロデューサー/チーフコーディネーター
鈴木富士さん
C.P. INTERNATIONAL PTY. LTD.オーストラリア ラインプロデューサー/チーフコーディネーター
鈴木富士さん