
Interview
食を通して
古き良き伝統、
文化を 未来の世代へ
最初に世界のばあちゃんにレシピを聞いて回ろうと思ったきっかけは何だったんですか?
「何だったんですかね(笑)。
旅をして色んな人の家庭を泊まり歩くのは大学時代からやってたんですよ。
そうしてるうちに結構人を顔で判断する癖がついたんです。
旅で初対面の人を信頼できるかどうか見極めるのって重要じゃないですか?
基本的に人って年をとるほど顔に性格が出ると思っていて。
それって世界共通で、この人がどうやって笑ってきたか、とかどういう表情してきたかとかシワにすごく凝縮されていて。
口では嘘つけても顔の方が嘘つけないってことに気づいたんですよ。
自分はいいシワの人になりたいなと思って。
そのために、まずいいシワの人に会ってみようということになって、
いいシワの最高峰って言ったら、ばあちゃんだろみたいな(笑)。」
もともと、ばあちゃんの“いいシワ見たさ”がきっかけだったんですね(笑)。
そこから、なぜ料理へと?
「大学生の頃は泊まりやすい同年代の人の家にお世話になることが多かったのですが、同じ釜の飯を食うじゃないですけど、一緒にご飯を作ると一気に仲良くなるんですよね。
信頼関係も生まれるし、いつも出ないような素の笑顔も出るし。」
食事を作る過程でこぼれる人の素の笑顔に惹かれ料理にも興味を持たれるようになった?
「そうですね。
料理してる時って脇が甘くなるので結構どんな質問をしても色々話してくれるんですよ。
対面だとちょっといいこと言わなきゃみたいなときあるじゃないですか。
でもそういうのが全然ないし。
そういう自然な感じがいいなと思って。
それで料理しながら話を聞くというスタイルが身についたというか。」
なるほど。そもそも料理は本題じゃなくて、素の話を引き出すためのものだったんですね…。
「でも取材を進めていくうちに、レシピの方に興味を持たれることが多くなって、結局、料理が核になってきて。それで、日々の料理の最高峰はなんだろう?と考えた時に、やっぱり、ばあちゃんの料理だろうと(笑)。
ずっと作ってきた歴史があるから。
本当は料理を紹介する本じゃなくてシワの写真集を出したいくらいだったのだけれど…。基本的にはばあちゃんが好きから始まっているということには変わりないのですが(笑)。」
そんな紆余曲折あっての、『ばあちゃんの幸せレシピ』なんですね。
登場するおばあちゃんたちがみな80歳以上の方を選ばれているのはどうしてなんですか?
「3年前、4年前くらいに始めたんですけど(2017年4月現在)、その時点で80歳以上の人は戦前の暮らしを身をもって知っている世代。彼女たちは戦後世代の若いばあちゃんたちとはレシピが全然違ったんですよ。」
第二次世界大戦前後で?
「そう。それがすごい面白くて。
戦争を経験している世代の人って何も無いところから何かを生み出してきていて、料理にしてもすごくクリエイティブなんだけど。70代になると、何でも化学調味料使えば、美味しくなるみたいな感じで。
その世代よりもう少し下になると海外のものを作るようになってきて。
例えば、私も家で煮物とかほとんど食べたことがなかった。シチューとかハンバーグとか洋食系の食事が多かったので家庭料理って言われても和食が思い浮かばないんですよ。
そういったこともあって、80歳以上のばあちゃんの何でも手作りするって感じがとても新鮮で楽しかったんですね。」
おばあちゃんたちと色々な話をされたと思うんですけど、何か新たな発見というか、どんなことを感じられたのでしょうか?
「最初は、苦労話を聞いてみたりしてたんですね。
戦争の時の話とか。とても大変だったでしょう?って。
でも、岐阜の山奥、板取って所に住む、あるばあちゃんは『こんな何にも無い所に爆弾なんて誰も落とさんし、どっちかっていうとみんながここに逃げてきたわ』なんて言ってて(笑)。
雪が降れば街まで出られない場所なんですけど、そういう時のご飯とか大変なんじゃないって尋ねたら、『毎年そうだから冬の間じゅう食べられるようにしているし』みたいな。
そもそもスーパーとか行かないし何が問題なのぐらいな感じで(笑)。」
今の人たちが苦労と思ってしまうことが、あまり苦労じゃない…(笑)。
「そう。最初は、ばあちゃんっていうと、か弱い存在で守ってあげなきゃいけないとか、こっちが何かできることがあるんじゃ無いかって思っていたんですが、弱いのはこっちだなと思って(笑)。
80歳以上ってみんながみんな戦争や災害や必ず何かをくぐり抜けて生きてきていて、ちょっとやそっとじゃ死なねーぞって気迫があるんですよね。
この人たちはどこでも生きていけるけど、むしろ私の方が生きていけないわと思って。
私の立ち位置が間違ってましたね(笑)。」
80超えのおばあちゃんはたくましいですね。
「たくましい。全然弱く無いし。現代人の方がはかないし。」
現代人はWiFiなかったら狼狽するし、コンビニなかったらやっていられない…(笑)。
「(笑)。
それに、ばあちゃんたちは、すごい強さもあるんだけど、その一方で、ふわっと、なるようにしかならないよねってあきらめとか、全てを受け入れる感じとかあって。
長野で出会った99歳のばあちゃんが私的に衝撃で。
そのばあちゃんに、今までの人生で一番楽しかったこととか幸せだと思ったことを聞いたんです。
そしたら『楽しかったことなんてなーんもなかったわい』
って言うんですよ。
何にも!?って聞いたら、『なーんにもなかったわい』って言うんですよ。
うそぉ!?何かあるでしょ!と思って(笑)。根堀り葉堀り尋ねたら、幼少時に親元を離れて、子守として他の家に雇われてかなり働かされてて、学校もちょっとだけ行ったけどすぐ戦争で行けなくなって。蚕飼の仕事をして。
旦那さんも初めましてで結婚して。
お子さんについて聞いたら、『4人か5人産んだかなあ?』みたいな…。覚えてないの!って(笑)。
今じゃ考えられないけれど、忙しくて子育てどころじゃなかったから、座布団敷いたカゴに子どもを置いて畑仕事をして。
赤ちゃん泣くでしょ!?って聞いたら、『泣いても、泣いて泣いて泣いて疲れて勝手に寝てる。それでいいんだよ』って。なんかすごい納得しちゃった。
結局70歳ぐらいまでずっと働いて。
確かに超大変だ!と思いましたね。」
確かに(笑)。想像を絶しますね!
「結局、いいお嫁さんが来て今が一番楽だとは言ってたんだけど…。
本当に何にも楽しいことがなくて、自分だったら何を糧に生きられるだろうと思っていたら、孫が、そう言えば、ばあちゃん、『生きてる間に咲かない花もあると思うんだよね』って言ったんだって。
それが結構グッときて。
幸せにならなきゃいけないというのが今の現代人にとって呪縛だったんじゃないかと思って。いかに自分が幸せかってSNSを使って切り取っていくとか、完全に意味ない。
幸せなだけが人生じゃないし、そうじゃない時も人生にはいっぱいあって。
でもそれでもいいじゃんって言っちゃえるこの99歳のすごさ。
いろいろあるとくよくよしちゃうけど、ばあちゃんの話を聞いてると、そんなこと些細すぎて何でもなくなる(笑)。
そう思ってから聞くことも変わってきて。ただただお茶してると面白い話がぽろっと出てきたりとか。」
おばあちゃんたちとの会話が深まっていくなかで多くの気づきがあったんですね。
「そこから結構恋話を聞き始めるようになって。
話を聞けば聞くほど80歳以上の人たちは人生を自分で選んでないパターンが多いんですよ。
もちろん大恋愛して駆け落ちのようにして結婚したばあちゃんとかもいるんですが、勝手に決められた会ったこともない人と初めましてで結婚しましたってばあちゃんとか…。
いろんな恋愛話を聞いて、そのうちに、ある法則に気づいたんです。
結局、“誰と結婚しても一緒だ”と思ったんですよ(笑)。
大恋愛の末に結婚した人も全く初めましての人と結婚した人も50年くらい連れ添って80歳になった時にどっちが幸せってわけでもなかったんですよね。
これは誰と結婚するかが問題ではなくて、そのあと2人でどうやって暮らしを築いていくかが重要だなと思って。
いろんな暮らしのあり方を見せてもらって、そこには誰かのためにご飯を作り続けてるばあちゃんたちの姿が常にあった。
そういう風にして食文化って作られてきたんだろうなって思ったんですよね。」
おばあちゃんたちの生き様が食文化には凝縮されているって感じですね。
「最初は誰々ばあちゃんの何々が一番美味しいとかを気にして取材してたけど、そこにはあんまり意味がないなと思い始めたんです。
文化って一人では成り立たないし、どうやってみんなで作ってきたのか、どうやって生活の一部になってきたのか…っていう方が今はすごい気になって、そっちにシフトしてきたというか。
以前、民藝運動にはまっていた時に、柳宗理さんの著書をたまたま手に取って読んで、すごい衝撃を受けて。
大切なのは、特定の誰かが作ったってものではなく、その土地に根付いている文化を取り入れて地元の人にずっと作られてきた、その場所じゃないとできないもの。
これって、ばあちゃんの幸せレシピと一緒だなと思ったんですよ。
自分にとっての普遍性って何なんだろう?そういう本質的なものってどこの国でも出会うと同じような感覚を得るんですよ。
日本でも世界でもずっと変わらずにみんなが大事にしている普遍的なものって絶対あると思うんですよ。」
「それが食だとわかりやすい。
例えば、私の好きな場所の一つに南仏のバニュルスって地域があるんですが、そこに自然派ワインだけでワインビネガーを作ってる所があって。
めっちゃいい感じのすごいかっこいいおばちゃんがやってるんですけど、そこのワインビネガーがすごく美味しくて。
どうしてこんなに美味しくできるのか聞いたら、『別に私、何にもやってなくて。まあ、やっていることとすれば菌が働きやすいように整えてあげるのが私の仕事で、職人は菌なんだよ』と。そこの菌は研究機関が採取に来るくらいかなり特殊らしく、面白いなと思って聞いてたんですけど。
小豆島のヤマロク醤油という醤油蔵の人が同じように『うちの職人は菌だからさ。菌が働きやすいようにしてあげるのが僕たちの仕事で僕たちは別に何もやってないんだよね』みたいなことを言ってて。
自然にちゃんと向き合う人ほど、どこの国とか関係なく同じようなことを言うんだなと感心しました。
都会が均一化していってるのは私も感じるし、しょうがないかなとは思ってて。
でも、一方で、地元に根ざして、真摯に自然と向き合う生き方をしている人たちが各国で一握りくらいいるんですよ。
なので、今の時代の強みである繋がれる力をもっと使って、そういう人たちをつないで一気に食をテーマに世界的なムーブメントを興せないかなって思うようになりました。
民藝運動の話に戻ると、そういうことを日本全国回ってアナログでムーブメントを起こそうとしてたのが柳さんたちの世代だったんだなと思って。しかも私が生まれる前にもう終わってたんだって衝撃を受けて。
これって今やったらもうちょっとワールドワイドにできそうだなとか思ったりして。」
「ばあちゃんと話していくなかで上の世代のことは分かったけど、じゃあ自分たちは孫の世代になにを残していけるのだろうか?みたいな思考に最近シフトして、フードエデュケーションにも興味を持つようになりました。
ここタイも…、日本もですが、食に関してのエデュケーションがすごく遅れていて、ちまたに食べ物があふれ過ぎてても誰もフードロスとか気にしない。オーガニックって言っても認証買ってるだけで怪しいみたいな(笑)。誰が作って、どこから来るとか全然気にしてないし。
サスティナブルシーフードに関しても、例えば、魚を獲り過ぎている漁業の現状があって、このままいくと孫の世代は魚が食べられなくなってしまう恐れもある。
自分たちの代で伝えなければいけないもの、ストップしないといけないものがたくさんある。
そう考えると、アジアの一員としての日本の位置付けをもっとちゃんと自覚して考える必要があるとすごく思うんです。」
日本の中だけにいると“日本はやっぱりいいよね!”的風潮が強い気がしますね。
「海外に出てみると、それってどうだったんだっけ?みたいな感じになりますよね。
それこそグローバルカンファレンスに行った時に、日本はクールだと思われていると思ってたのは自分たちだけだった…みたいな現状を実感することがあって。
東南アジアの国々の方が全然盛り上がってるし。
まだ今ならもっと協力し合える状況にあるのに、私たちの価値観がこのままだと他国に置いてきぼりにされてしまった後では日本の立場がなくなるだろうなって。
食に関して言えば、自国で自給率が上げられないのであれば、国際的にもっといろんな協力の仕方があるだろうし。文化的に近い国々と協力して食文化も育み、共に食の供給率を上げていけるような構造にできるのではないかと強く感じていて。
いつの間にか日本が孤立してしまうような状況にならないといいなって思います。
タイなんかは海外で学んだ優秀な人材がみんな戻ってきて、自分の国のために何かしていこうってパワーに溢れている…。」
日本も、これからの時代の豊かさの基準というか、生きる根底となる価値、考えか方を世界的視野を持って持続可能な方向へシフトさせることも重要ですよね。
「そうですね。日本では、これから人口が増えることって無いじゃないですか。
昔みたいに人口が増えて盛り上がるなんてことは無いから。
どうして“低空飛行を美しくしていく”って話をしないんだろうなと思って。
そっちの方が現実的だし。
それこそ、ポルトガルなどのように成長路線とはまた全然違う文脈で、美しい日々を楽しむという風潮は、国として私はすごく良いなと思っていて。
そういうところがあっても良いのかなと思うし。
どういうふうに立っていくかですよね。」
そういった思いから、お店をやりながら食のエデュケーションに取り組むというところにたどり着いたのですかね?
「そう、何かやりたいなと思ってるんですよ!
そうすると、場所があるのは重要だなと思い始めて。
そこを拠点に世界とつながりながらいろいろできれば良いかなと。
今までは、それこそいろんな所に行きまくっていたし、ひと所に留まるなんてこれっぽっちも思ってなかったですけど、いろいろ心境の変化があったんですよね。
紆余曲折ありましたが、1年の間にいろんな人と出会って、ようやく役者が揃った感じで、レストランとショップをオープンすることになりました。
どこであろうと良いものは良いよねって言えるようなものを作ってる人の食材を扱いたいねって話をしてて。同じような感覚で作っている生産者さんたちのものをストーリーと共に売っていけたらと思っています。
来月(インタビュー当時、2017年3月)から、ヨーロッパに1ヶ月間行くのもポルトガルやスペインのそういった生産者さんに会うためです。
自然に即した本質的な食の現場に携わる人たちの話をどこにいても広げていくことができたらいいかなと思っています。」
最高の笑顔を追いかけ、素敵なシワのおばあちゃんたちに出会い、脈々と受け継がれてきた食のレシピにたどり着き…。優さんがたどってきた、普遍的な豊かな暮らしの真髄に迫る旅。
宝(=地域に根付いた文化や伝統)はどこか特別な場所で特別な人によって作られるものではなく、日々の普通の暮らしの中で、僕らのような普通の生活者によって醸造され受け継がれるものなんだってことを改めて感じさせてくれた優さんのインタビューでした。
現在、優さんの思いに賛同する旅で出会った世界中の仲間たちが集い、新たな展開が動き始めているようです。
宝探しの旅から宝を創り出す旅へ。優さんの食を巡る旅は、次の世代へつなげていく“宝”を新たに作り出す方向へと向かっていくようです。
現在は、『TASTE HUNTERS』という輸入会社をタイ人たちと立ち上げ、とびきり素敵な生産者たちの美しい商品をストーリーとともに紹介していく新しいスタイルのインポーター業に取り組まれている優さん。ここからまた新しい時代を創り出す価値が生まれていきそうです。
ばあちゃんたちの宝を受け継ぎ、さらなる進化を遂げ邁進される優さんの今後の活躍から目が離せません。
ps.優さんのばば話を聞きながら、数年前に102歳で他界した祖母が思い出されました。
毎日、ぬか漬けのぬか床を丁寧にかき混ぜていた祖母。今はそれを母が受け継いでいますが…。
人気の流行りのレストランでインスタ映えの見た目きれいな料理を撮るのに躍起になってる暇があったら、自家製味噌を作ったり、ぬか漬け作ったりしようかな~なんて思ってしまいました(笑)。
TASTE HUNTERS Co-Founder、『40creations』代表
中村 優さん
TASTE HUNTERS Co-Founder、『40creations』代表
中村 優さん
1986年、岐阜生まれ。大学時代から30ケ国以上を旅する中で、国や世代を越え食の重要さを実感。複数の企業からのスポンサードを受け、食を通しての異文化交流実現を目指す『The Best Smile from World Kitchen』プロジェクトを立ち上げ、各国の家庭料理を学ぶ。
大学卒業後、編集プロダクション「たらくさ株式会社」、レストラン「キッチンわたりがらす」にて編集と料理を学び、2012年に独立。世界各国から“とびきりおいしい”をおすそ分けするサービス『YOU BOX』をスタート。その頃から、世界中のおばあちゃんのレシピ収集も開始。2015年に、食のプロジェクト『40creations』を立ち上げ、企業の広報や新規事業立ち上げ、レシピ開発にも携わる。
2016年にタイのバンコクに拠点を移し、タイ人の仲間たちと立ち上げたお酒やワインの輸入販売『TASTE HUNTERS』、そして『ココナッツナカムラ』というオーガニックココナッツシュガーの農家さんと共同の商品開発プロジェクトなどの活動に奔走している。