
Interview
オーストラリアで俳優デビュー!?
人のつながりから生まれる
想定外なHappy Life
なぜオーストラリア、しかもパースに生活の拠点を移されたんですか?
「もともと海外に出ること自体に抵抗がなくて。
うちの両親が30年以上前からボランティアでホストファミリーをやっていて、地元の国際交流機関やNPO団体がホストファミリーを探してると、学生、社会人関係なく手を上げる(笑)。
しょっちゅう外国人を連れて来て泊まらせるんで英語出来ないと不便だったんです。それで高校の時に海外に留学しました。」
初留学がオーストラリアだったんですか?
「そうです。
親父の紹介で神戸日豪協会というNPO団体の交換留学で。相手先がパースだったんです。
その後、より都会に行きたくて大学を一年休学してワーキングホリデーでメルボルンに行きました。
海外での生活に憧れを持ちつつも、実際、留学、ワーホリを経て現実を知ってくうちに永住権を取るなて夢のまた夢と思ったんですよね。」
そこで一度、海外で暮らすことはあきらめていた?
「そうですね。
普通に帰国して日本の企業に就職して。5年目に、アメリカ支社のプロジェクトの話が持ち上がってたんですね。海外で働けるチャンスと思って喜んだのもつかぬ間、その話が頓挫して。しかも、そのプロジェクトの失敗の原因を押し付けられた形になって。
部署も今まで全く違う担当に異動させられて。与えられる仕事も雑用みたいな仕事ばかり。会社に対する不信感も募っていって結局辞めることになったんです。
2010年、ちょうど29歳の時ですかね。世間で“ワークライフバランス”ってことが頻繁に言われるようになった頃です。
とりあえず一度、会社を辞めて、海外で1年間リフレッシュして、帰国したらきちんとした会社に就職してサラリーマンライフを再スタートしようと思っていたんです。
で、どこに行こうってなった時に、やっぱりオーストラリアに行きたいなと。
たまたま、高校の時に留学をお世話になった神戸日豪協会が日本語補助教員を募集していて。
しかも僕が通っていた同じ学校に派遣されるという話で。
ちょっと良いなと思って応募したんですね。」
募集の内容はどんなものだったんですか?
「外国語を教えているオーストラリアの学校から、各語学の母国からアシスタントとしての人材を呼び寄せたいという要望に応じる形ですね。僕が教えてたのはクライストチャーチグラマースクールっていう私学の男子校で。兵庫県の報徳学園と姉妹校で、2年ごとに生徒を送り合っている。日本語教育も20年以上やってるんじゃないかな。
仕事っていうよりは、あくまでも国際交流の延長でボランティアに近い。
30万円の参加費を払ったら1年のビザが下りるみたいな。退職金がそのくらいだったから調度いいなと思って(笑)。
で、仕事も家も食事も支給してもらえる。
月7、8万円ぐらいもらえる仕事で、3、4ヶ月働いたらペイできると思って。
20歳以上30歳未満であること、TOEIC600点程度の語学力があること、月に一回ある研修に半年間参加できること…等、満たさなければいけない項目がいくつかあったのですが、自分はそれをクリアして。」
ご縁があったNPO団体に特別なビザでの人材要請のツテがあったわけですね。
それは、一般の人でも応募可能なんですか?
「これに関しては口コミですよね。
だからもう何十年も続いてるこの派遣プログラムは、お友達もしくは後輩にどんどん受け継がれるっていうか。
だから大学生が多いんですよね。教員を目指している学生が休学してというケースが多いようですね。
社会人が急に辞めて行くのは珍しいですが、年に一人ぐらいはいますね。一応、サイトはあるので誰でもチェックすることはできますよ。」
それで、一年間のリフレッシュの意味での渡濠だったわけですが。
結局、長く住まわれることになった理由は…?
「一番の魅力は、暮らしと仕事のバランスがとても良い。
パースもそうだし、オーストラリア全体的としてそう。
日本では言ってるだけじゃないですか、ワークライフバランスって。
現実的に達成出来てる人は、努力して実現してるじゃないですか。もしくは会社の理解がすごくあるとか。
メディアに取り上げられて目にするから一般的になっているように思いがちですけど恐らくごく一部じゃないですか。
某大手企業の残業問題がニュースになっていたりしたけど。
自分も、もっと働いてたと思うし(笑)。
でも、その状況をおかしいと思ってもそれを口に出せない風潮がある。
おかしいって言うほうがおかしいみたいな。
パースはそういうのが全くないんですよ。
“俺らワークライフバランス頑張ってるぜ!だからすごい充実した生活してるぜ!”なんて言ってる人はまずいないですよ。」
当たり前なんですかね?
「そう、当たり前なんですよ。
だから、残業しようものなら、“え?夜仕事すんの?”、“週末?仕事すんの?”って驚かれる。
さらに“週末仕事するって事は、時給2倍になるの?”って聞かれる。
“日本では、週末でも時給は変らないし、ひどいところは出ない”って言うと、
“Crazy!”、“大丈夫?“”って言われる。スタンダードが全く違うんです。」
1年間の日本語補助教員のお仕事の後はどうされたんですか?
「2年目は学生ビザが発給されるのもあって、もともと興味があったマーケティングを勉強するために専門学校に通い始めました。
平日、2日半通えばよいので、残りの日は何か働こうと。
新しく仲良くなった自動車整備工場の友達にお願いして仕事をもらって。
もともとバイクや車いじりが好きだったので。
それを生活費の足しにして2年間くらいはそれで生活してましたね。」
チューターのお仕事はどのようにして就いたんですか?
「パースではハウスパーティが多いんですよ。
うちに夕飯を食べに来なよとか。
日本人は、よっぽど仲良くならないと人を家に誘ったりしないじゃないですか?
でも、こっちでは、そんなに親しくなくても招待してくれるんですよね。
社交辞令じゃないかって思ったりするんですが。
そこで僕は、一年目に“どんな事でも誘われたら断らない”って自分でルールを決めたんですよ。
“あ、こいつ本当に来たわ”って思われてもいいやって。誘われたら何にでも顔出したんですよ。
そうしたらそこでネットワークが広がったんですね。
コネって日本ではあまり良くないイメージですけど、こっちではコネっていうのはある意味お互い頼れる間柄って感じがあって。
例えば、車で困った時は彼に相談しよう、美味しいご飯食べたいときは彼に教えてもらおうみたいな。
ちなみに、奥さんともホームパーティで出会いましたし(笑)。」
そんな素敵な出会いがホームパーティで?
「奥さんは、僕が高校生の時の交換留学でお世話になったホストファミリーの息子さんの友達の友達の友達。つまり僕のホストブラザーの友達の友達の友達なんですよ(笑)。」
↑高校時代のホストブラザーデイビットさん。十数年来のおつきあい。麻酔科の先生です。
↑パースのToshiさんの仲間達。真ん中が奥様のLydyaさん。
そこからのご縁なんですね!?
「そう、そっから繋がってますね。
全てコネですよ(笑)!
だから誘われたら行かないとダメだし、友達の友達はもう友達って思わないとダメですね(笑)。
結局、こっちに長くいることになったのも一番の理由は奥さんと出会ったからですね(笑)。」
お仕事だけでなく、人生の伴侶まで!素晴らしきオーストラリアのホームパーティ文化ですね(笑)。
「そうしているうちに、日本語補助教員をしていた生徒の親御さんに家でのお食事に誘われて、その子の友達が日本語を勉強していて教えてあげて欲しいと言われて。
大学生の頃に家庭教師をやっていたし、パースの日本語のカリキュラムも知っていたので引き受けることにして。
最初は、知り合いの友達なのでボランティアのつもりだったんですけど、
ちゃんとお金を支払うので責任持ってやって欲しいと言われて。先方に提示された金額で引き受けて、それで授業料の基準が出来て。
それから、こっちの日本語の試験は日本人の試験官を相手に1対1での口頭試験もあって。それで僕の教え子が100点を採ったんですね。それがきっかけで“誰に教えてもらってるの?”ってなって。
あとは保護者面談で日本語の成績に悩んでいる親御さんから相談された学校の先生が僕を紹介してくれたり。
いろんな方からお声がかかって、ちょっと回らなくなってきた時に友達に相談したら“値上げしてみたら”って言われて。結局、授業料を上げて。
遠方の人からは交通費もいただけるようになって。」
人のつながりでチューターの生業を自ら作りだしたわけですね?
「それもコネですよね。
知人からの紹介なので信頼してもらえるんですよ。
だからコネってすごく大事だと思うんですよね。
もちろん紹介してもらった人にはワインの差し入れしたり、ボランティアで仕事のお手伝いしたりしてます。やっぱそこは持ちつ持たれつなんで、お礼は大事ですよね。意外かもしれませんが、オーストラリアも礼儀とか義理は結構大事なんですよ。」
ある意味、起業みたいなものですね?
「そうですね。
オーストラリアで日本人の自分が色んな仕事をネットで探して履歴書を送って応募しても無しのつぶてで返事が返ってこないんですよ。
外国人なので普通の仕事は、なかなか難しい。労力の無駄ってことが分かって。
それで自分でやり始めたんですよ。
資本金はほとんどいらないし。当然もらった分は税金も払うんで自分で請求書を作って。
学校で教える場合も、いつ、何時間働いたかタイムスリップを作って。
インボイスを学校のアカウントの人に出して、振り込まれるって感じなんで。
個人事業主というか。」
オーストラリアでは全く何もない所から整備工でのバイトから再スタートされたわけですが抵抗はありませんでしたか?
「僕は、こっちに来た当初から“自分は外国人”って意識しているつもりなんで。
“外国人だからフロアを箒で掃除するのも全然喜んでやるよ”みたいな感じだったんで。
ブルーワーカー的な仕事に抵抗感を感じるなんてことは全くありませんでしたね。
むしろ働けてラッキー。
例えば、ワーホリで来る若い方なんかは、自分が外国人って意識が薄い。そうすると現実と感覚のズレがあって、つらく感じることもあるかもしれませんよね。
それから、外国人であると同時に日本人である意識が強かったんで。
オーストラリア人って日本に良いイメージがあるんですよ。
日本人は丁寧だし、ちゃんとしてるし、綺麗好きだしとか。
先人の人達が築いてくれた、そのイメージを俺が壊したらいけないと。
日本人は適当な事をするとか、汚い事するとか思われたくないんで。
日本人のプライド的なところはあって期待された以上に見合うものをしないとっていうのはいつも考えてましたね。
整備工で働いていた時に、整備を出すのに知識も無いし、語学力もなくて困っているパースに来たばかりの日本人のお客さんの仲介をしていたこともあって。
ボスからはインドやパキスタン系の人は値下げを強い姿勢でネゴシエートしてくるけど、僕の紹介する日本人は紳士的で良いお客さんだって喜んでくれて。
日本人のお客さんも英語で説明されても理解できないから、僕が間に入って通訳して教えてあげたら安心して整備に出せるってありがたがってくれて。
日豪のうまい橋渡し役を務められたらなってのもあって。」
さっきの“誘われたら行く”の精神じゃないですけど出来ることがあったら何でもやるってのが大事で、そこから次につながっていくものなんですね。
「そうです。『スカルプチャー・バイ・ザ・シー』というコッテスロー・ビーチ(↑の写真のビーチ)に60以上もの彫刻が並ぶ屋外アート展示会があるんですけれど、そこでもオーストラリア在住で日本人の観光客のために通訳できる人を探してて、たまたま僕の名前が上がって。
知り合いからの紹介が仕事につながるんですよね。」
俳優のお仕事も、そんな感じで舞い込んできたんですか?
「そうです。最初、2014年に折り紙の紙飛行機が題材で、オーストラリアで優勝した紙飛行機のチャンピオンが日本の大会に参加するというストーリーの子ども向けの映画を作るって話があって。
パースにある西オーストラリア大学の構内を日本っぽく作り込んで撮影されたんですが、英語が話せる若い日本人を探してて声がかかったんです。オーストラリアと日本の国際交流のために最初は週末だけボランティアしてたんですけど。
そしたら、たまたまハマったみたいで、結局、主役の隣にいつもいるガイドの役を演じることになって。ちゃんと給料も出て。
その時に、待ち時間が長くて、僕はおしゃべりなんで衣装さんやメイクさんやADさんとかと色々な人と話してるうちに面白いと思われたみたいで。また日本人が必要な役があるときは声かけるみたいなことになって。」
それがきっかけとなって、さらにドラマの主役に抜擢されたんですか?
「そうですね。『Top Knot Detective』(邦訳すると『浪人推理探偵』)っていうSBS2というオーストラリアのNHKのEテレみたいな放送局の製作で2016年の9月28日にドキュメンタリータッチのフィーチャー映画として放映されたんですけど。」
↑撮影中のオフショット。
「僕が演じる主人公は、90年代前半に人気だった時代劇の役者兼監督なんです。
20年後落ち目になって、“あの人は今”的な感じで昔を回顧するドキュメンタリーという設定のフィクションで。
初めて脚本を見た時に、セリフもかなりあって。
しかも無茶苦茶な役で。
酔っ払って人に罵声浴びせたり、刀振り回したり、泥酔してほぼ真っ裸で寝たりとか。そういうシーンが多くて。
最初は断ろうと思ったんですけど、うちの奥さんが、撮影でタダで日本に行けるならいいじゃないと後押しされて(笑)。」
日本で撮影だったんですか?
「そうです。最初はパイロット版を京都で2週間ロケ撮影して。
カメラマン2人、ディレクターが2人と僕の5人。
カメラもただの一眼レフですよ。
それからスタジオの撮影を2日間パースでやって。
10分くらいの動画になって品評会に出したら好評で。
長いのを作ろうって話になって映画になってしまった。
昔は、オーストラリアは人口が少ないこともあってテレビのチャンネルも少なくてコンテンツも少なかったんですよね。
当然英語が第一言語なんでアメリカやイギリスのものが多いんだけど、昔から日本のドラマやアニメ、『風雲たけし城』みたいなバラエティやクイズ番組が人気で。
あと、黒澤監督とか、三船敏郎や勝新太郎とか往年の日本映画をマニアックに好きな人とかも多くて。
それを逆手にとって、日本のテレビ番組や映画へのオマージュを込めた内容というか。
“ああ、昔こういうのあったよね”みたいな(笑)。
あえて昔のシーンは全部VHSに撮り直してちょっとノイズ入れたりして。
結構手の込んだ凝った内容なんですよ。今は海外の映画祭に出展してるので、受賞なんかしちゃったらおもしろいことになりますよね(笑)。」
あきらめていた海外暮らしを実現させて、しかも日本では想像もしなかった俳優業まで経験されたわけですが、これから何かしようとしてることはあるんですか?
「半年間(2017年2月~8月予定)、世界を巡る長期の旅に出る予定です。
本当は、もともと僕は旅が嫌いで。ひとつの場所に留まりたいタイプなんですよね。
そこに、顔なじみとか友達が増えるほうが僕は好きなんですよ。
英語通じない所はちょっと怖いなあとか。」
意外ですね!
「でも、奥さんが割と旅好きで。
うちの奥さん旅慣れてて、UBERとかAirbnbとかスカイスキャナーとかインターネットの普及で便利になったトラベルTipsを教えてもらってるんですよ。
安くて便利で安全だよって。
それで彼女とバリやマレーシアやペナン島とかちょこちょこ行くようになって。
航空チケットなどを管理できるiPhoneのPassbookってあるじゃないですか?。
保存しておくと搭乗時間とかの情報が出てくる。表示されるQRコードをカウンターで見せてチケットをプリントアウトしなくてもでゲートを通れる。
到着したら現地のSIMカード買ってUBER呼んで。
そのうち旅先で残ったお金を今までは帰りの空港で募金してたのが、
トラベルウォレットに貯めるようになって。海外の通貨の種類が増えてくる。
そんな事を繰り返してるうちに、“あれ?俺、旅慣れしてきてんじゃねーの?”って楽しくなってきて。奥さんにうまいことやられて旅好きになってきたんですよ(笑)。」
わかります。今、旅しないのがもったいないくらい、旅をすることが簡単になってますよね?
「そう!今、自分と奥さんの中では世界への旅に出るタイミングなのかなと。
で、気づいたんですよ。旅行って、友達が住んでいる場所に会いに行く過程が面白いなと。観光はついでにすればいい(笑)。
友達と旅行先で待ち合わせするのも楽しい。僕、日本人の友達とペナンで待ち合わせしたんですよ。
その旅が超楽しくて。町自体は別にどうでも良いんですよ。その友達と一緒に何かするのが楽しくて。
それがきっかけで旅も悪くないなと思うようになったのもありますね。
今回も海外に住む友達の所を回って行こうと。
例えば、オーストラリアに住んでる台湾人の友達が、こないだ結婚して、子どもが生まれるので両親に会うために里帰りするって言うんで、その時に台湾に行ってやれと思って(笑)。」
感動的なシーンに立ち会えますね。
「結婚式でご両親にもお会いしてるし。グルームズマンと言って新郎新婦の目の前の最前列に近親者が並ぶんですけど僕もそこに参列したので。
美味しいご飯を食べるのが楽しみです!
だから世界中の友達に会いに行く感じ。
あとイギリスとタイは僕がやってるスヌーカー(ビリヤードの一スタイル)の本場なんで、道場破りに(笑)。」
戻って来た後は何か考えていますか?
「完全ノープランですね(笑)。
ただ日本語を教えている学校からは早く帰って来て受験生に授業して欲しいって言われているんですけどね。
安定した仕事がしたいんですよね(笑)。
毎日同じオフィスに行きたい。サラリーマンになりたい(笑)。」
脱サラリーマンからオーストラリアで俳優デビュー。
一見、破天荒なToshiさんのこれまでの足跡は、よくよくお話を伺うと、ひとつひとつ着実に築き上げてきた人と人とのつながりの成果のようです。
逆を言えば、それさえあれば、どこにいても何でもやっていけるのかもしれません、これからの時代。
だからこそ、当たり前の日常に、そして自分の周りの人々に、日々感謝するということがとても大切であるという、とても当たり前の事に改めて気づかされます。
であると同時に、もし現状に行き詰まり閉塞感を感じる日々が続いているのなら、それは出発の合図かもしれません。新たな出会い、明るい未来が、きっとあなたを待っているかもしれません。
チューター、俳優業
Toshi Okuzakiさん
チューター、俳優業
Toshi Okuzakiさん
1981年生まれ、千葉県出身。1998年、高校時代にオーストラリアのパースに留学。2002年、麗澤大学在学時にメルボルンにて1年間のワーキングホリデーを体験。
大学卒業後、会社勤務を経て、2011年よりオーストラリアのパースに移住。チューターとして活躍。2014年の映画のエキストラ出演を機に、2016年にオーストラリアSBS2製作の『Top Knot Detective』に主演俳優として出演。