Quest for quality life through traveling around the world.

Interview

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集い、つながり、面白いことが始まる! “山梨のガラパゴス”勝沼の太陽

SUNKING Cafeオーナー
上村卓也さん

過日の取材で山梨にお伺いした際に“勝沼のブドウ畑のど真ん中に、個性的で魅力的な人達が夜な夜な集う面白いお店がある”という情報を入手。さらにその話によれば“そこのオーナーは、以前、代官山の『ハリウッドランチマーケット(HOLLYWOOD RANCH MARKET)』のカリスマスタッフだったらしい”とのこと。
『ハリウッドランチマーケット』と言えば、名デニムアイテム“BLUE BLUE”などを生み出した生地から縫製まで細部にこだわる服作りで、熱狂的ファンに支持され、1980~90年代には、一大ブームを巻き起こした伝説的なアパレルショップ。
なざ東京のオシャレ業界最前線から、地方の辺鄙な土地でのカフェ経営へ?
しかも、そのお店が地元コミュニティの中心地として盛り上がっている…。
なんだか“MeLike”的なストーリー。これは、お会いせずにはいられない!
ということで、話題のお店、山梨県勝沼市『SUNKING Cafe』のオーナー卓さん、こと上村卓也さんに取材のお願いを申し込むことと相成りました。
“山梨のガラパゴス”と卓さんが称賛する勝沼市休息(地名からして素敵!)の魅力。卓さんがこの土地に辿り着くまでのいきさつ。そして、この土地で暮らして感じる豊かさについてお話をお伺いしました。

ハリウッドランチマーケット人気の
根源は、バブル時代の価値観に
相反するヒッピー精神だった!

一面に広がる畑の合間を走る一本道を進んでいくと、まばらな街灯に照らし出された手作りの案内板を発見。


sunking cafe看板


指し示された方向に細い路地を曲がると、大海原を優しく照らす灯台のように『SUNKING Cafe』の明かりが見えてきました。


扉を開くと、店内は既に大賑わい。


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この日は、勝沼の『マルサン葡萄酒』オーナー若尾亮さん(後ほどインタビュー内で登場します。)が主催する月一恒例の人気イベント『月刊 若尾亮』の開催日。


 


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インタビューの前日に面白いイベントがあるという卓さんのお誘いを受け、私も参加させていただきました。


誰しもウェルカムな和やかでオープンな雰囲気。美味しい食事と勝沼ワインに舌鼓を打ちつつ、心地良い音に身をゆだねれば、どんどん近づく皆の距離に店内はマックスハイテンション!


気がつけば初対面のお客さん同士肩を組んで大合唱!盛り上がりは衰えを知らず、夜は更けていったのでした…。


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明けて翌日。


再び訪れた店内には午後の柔らかな陽が差し込み、昨夜のお祭り騒ぎが嘘のよう。


昨日と同じ笑顔で迎え入れてくれる卓さん。

卓さんカウンター


「よく仲間と話すんですけどね、お店って船みたいなものだって。


昨日のイベントは、大航海でしたね(笑)!


いや~、大変な舵取りだったけどでも面白かった。


えらいとこ行ってきたね、なんて感じでね。


で、意外に次の日は、港に停泊するように、何事もなかったみたいにのんびり落ち着いていたり。」


にこやかで大らかだけど凛とした卓さんのイメージは正に船長。


バブル、平成不況、震災、そして混沌とする現在と、大波に揉まれながら時代を駆け抜けてきた卓さん。


『SUNKING Cafe』のオープンにたどり着くまでの軌跡は?


卓さんの原点とも言える、ハリウッドランチマーケット時代のお話からお聞きしました。


 


「ハリウッドランチマーケット(以下、卓さんの言い回しに基づき“ランチ”と表記)は、最初バラックで営業をスタートして。


旧山手通りが酔っ払いで埋まったという伝説の祝閉店パーティというのがあって。


その後、今の代官山の2階建ての建物が建って、僕が仕事し始めたのはその頃。1987年の3月。


後々100人以上の大所帯になるんですけれど。まだスタッフは全員で30人いるかいないか。


開店当初は、店内で腕立て伏せをしたり、先輩と大声で“いらっしゃいませ!”を言う競争したりするぐらい手持ち無沙汰だったんですけれど。


その年の5月のゴールデンウィークにお店が爆発的に人気になって。


店内は、身動きがとれないくらいで。


レジには行けないし、商品はどんどんなくなっていくし。


入場を制限するほどで。」


 

↑『ハリウッドランチマーケット』時代の卓さん。当時取材された雑誌の記事より。

ハリウッドランチマーケットに入るきっかけは?


「元々、富山の老舗のトラッドショップで働いていたんですよ。


顧客も出来て、24歳独立して古着屋をやろうと思ったんですよ。


富山にまだ古着屋が一軒もない時代で。


会社を辞め、出店の準備をしながら手伝っていた店の社長さんが僕のことをランチのボスに話してくれて、その翌月には働いてました(笑)。


1年くらいでアメリカへ古着の勉強に行こうと思ってたんですが、ボスとも意気投合したというか、可愛がってもらって、結局10年お世話になって。


入って、間もなく企画担当になって。


1980年代の終わりから90年代の頭くらいまでサイケデリックというかヒッピームーブメントがリバイバルしてくるんですよ。


その背景にはアメリカの西海岸のカルチャーの盛り上がりがあって。


65年から活動しているグレートフルデッドというバンドが87年になぜか爆発的に空前の売り上げを記録するんですよ。


彼らは、アルバムを出さずに、年間200回以上ツアーだけやるようなバンドなんですけど。


アルバムが全米9位になってしまって。音楽業界が騒然となって。


多分それが引き金になって、60年代後半にヒッピームーブメントの中心地だったサンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区辺りがまた注目され出して。


88年に初めてシスコに行ったんですけど、街全体がタイダイで溢れていて。」


このくまのキャラクターのですよね?


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↑グレイトフル・デッドのキャラクターアイコンの“デッドベア”。


「そうそう。それがバーッと世に出回った頃。


“ランチ”のボスはリアルタイムにヒッピーで。


アパレルブランドのVANに2、3年いて、世界を見に行くと言って、最後の移民船“ブラジル丸”に乗って、渡った先がサンフランシスコベイで。


時は、1967年の夏。サマーオブラブ。ヒッピーがバーンと開花した年で。


“アメリカ人はみんなネイビーブレザー着てネクタイ締めてるもんだと思ってたら、港に着いたら、ボタンダウンどころか服着てないんだぞ!”と。


素肌にジーパン、ダンガリーのシャツを着ているカリフォルニアのスタイルに衝撃を受けて。


それからボスは世界を放浪したんです。ヒッピーになってヨーロッパも旅して。


日本に初めて古着を売ろうと、大量に持って帰ってきて。


それまで、日本人は古着を着る習慣が全くなかった。


ボスがずっとやってきた事とリバイバルの時代がマッチして、ちょうどそのタイミングに僕もいて。


ヒッピームーブメントにはすごく興味があったので、これは自分も貫くしかないと。


ボスからも“やるなら徹底的にやれ、俺もそうだった”って。髪の毛を伸ばし、裸足になって。


ヒッピーのアイコン的な存在として、かわいがってもらったっていうところもあると思うんですけど。


取引先の工場に裸足で通って。染工場なんかに僕専用の白い長靴とがあって。


フォークリフトを運転したり、染めを手伝ったりして、また裸足で東京に帰る。


月に2、3回は広島や岡山に裸足で出張してましたね。


それで雑誌の取材を受けたりもしました。」


 

一生履けるジーンズを提供しながら
毎年、新しいジーンズを売らねばならない
矛盾への疑問

「90年代に入ると、イタリアもののジャケットとかヨーロッパのお高めのスーツなんかを扱うお店が出始めて、時代の変化とともにファッションの流れも変ってきて。


自分の中でも違和感を感じることがあって。


僕らは、糸からこだわって、ひとつひとつ丁寧に一生履けるジーンズを作ろうと言ってるのに、去年より今年は売り上げを10%伸ばせって言われて。


それはおかしくないかと。


日本人はおそらく全員ジーンズ持ってます。


一生履けるものを提供しながら、誰に次のジーンズを売っていくんだって疑問がふつふつとわいてきた頃で。


何か不自然だな。


我々ヒッピーが一番中指を立てるべき資本主義経済の大きな渦の中に完全にいるじゃねえか、って。


根が真面目なんですよ。そこが許せなくなっちゃう。


その後、ボンベイバザーという飲食事業が立ち上がって、そこの店長をすることになりまして。


大判焼きを作っていたんですけどね、自分達でわざわざ北海道から小豆を取り寄せて、厳選した砂糖であんこを煮て、1個1個詰めて、焼印まで押して。


それを1個100円で売っている一方で、49,800円のジャケットを“ヨンキュッパ”って言って売っている。


それって何だよって。


同じ会社の中で、こっちは丹精込めて作った大判焼きを100円で売ってるのに、“ヨンキュッパ”なんて言うなよ、色気ないじゃんっていう。


飲食に携わって意識が大きく変ったんですよね。


所詮、洋服なんて着られるものがあればいいじゃないですか。


“食べる”ってことに、すごく引っかかったんですよ。


それがいいきっかけ。


思い切って、97年に“ランチ”を辞めたんです。


ちょうど35歳。まだまだゼロからやれるいい時期というか。


変な話、お金も全部フラットになって、35で一文無し。


多少の失業手当をもらいながら。妻の幸子と一緒に住み始めまして。


彼女は、“ランチ”のスタッフだったんですけど、ボンベイバザーのオープンの際に志願して異動して、それからずっと料理の世界に入って。


彼女も“ランチ”を辞めて、それから調布の自然食レストランで働いたり、代官山のピカソルっていうシフォンケーキやスコーンを作ってる工場で働いたりとか。


彼女の料理を僕はすごいと思っていて。


料理って音楽と一緒でセンスだと思うんですよ。


どんなに技術を磨いて、例えどんなにギターの早弾きが出来てもかっこいい音楽が出来るとは限らない。


冷蔵庫の残り物で何かを作るときに一番真価が問われると思うんですよ。


よく彼女に料理を作ってもらうんですが、その日の残り物で常に美味しい物を作るんです。


でもその料理はその日だけで二度と出来ない逸品。毎回が名作なんですよ。


その感動をわかってくれてる人は、幸子の料理のファンになってくれるんですよね。


とにかくあなたの料理でお店をやりたいって口説き落としたわけじゃないですけど(笑)。


本当にすごい人だと僕は尊敬していて。」

「自分で何かやっていこうっていうのは自分に特別な才能があるとか、技術があるとか、人よりホームラン打てるとか。


自分が商品になることじゃないですか。


そう考えた時に、うちって東京の小っちゃなアパートに住んでた頃から、いつでも人が来てくれるんですよ。


狭かろうが何だろうが、一緒にご飯食べて、お酒飲んで、音楽やって、寝ていく。


山で知り合ったヒッピーが5人くらい転がり込んできて1ヶ月生活するなんてこもあったり。


これは、いつか旅館を開かなきゃねって冗談で言ってたんですけど、このスタイルこそが自分達の“商品”なんだろうなって思ってたんですよ。


みんな、こんな店があったらいいなと言ってくれていたので。


とにかく店をやるというよりも、自分達のスタイルを表現出来るステージを作っちゃおうっていう発想なんですよね。


それで当時、調布の深大寺で借家の1部屋を改造して、飲食店をやることにしまして。


壁を塗って、床貼ってって自分でトンカン作り始めて。


完成って時に、妻が妊娠してることがわかって。


これは、料理どころじゃないと。


でも、ここまできたので予約制のバーをオープンしたんですよね。


でも誰も来ないんですよ。


全然商売にはならなくて、、。2年半くらいやっていたんですが、おそらくとんとんくらいな。


ただ、これからのきっかけを掴めた感じで。」

手つかずの無垢な新天地
“山梨のガラパゴス”
勝沼との出会い

移住を考えるようになったきっかけは?


「子どもを授かったのが最終的な後押しになって。


子育ては絶対東京じゃないところでしたいと思っていまして。


調布市は簡単に保育園行けないんですよ。


待機児童ってやつですね。ママ友と話をしてると、とても深刻なんです。


プレ保育っていうのがありまして。


幼稚園に入る1年前から週に1、2度、2時間くらい月に2、3万払って見てもらうんですよ。


逆に言ったら品定めされちゃうんですよ。


結構癖のある子だったりすると、うちとは合わないからって断られちゃう。


高い金払って1年間費やした上に、入れるかどうかのゲートが待ち構えている。


これおかしいぞと。


深大寺は嫌いな場所じゃなかったんですけど。


まだいい時代で畑がいっぱいあって、大家さんが農家で。


家賃を持って行ったら、帰りに野菜をくれたり。


でも、どんどん家が建って。だんだんのんびりした雰囲気じゃなくなってきて。


家賃も十何万かかるし。そのために必死に徹夜して仕事をするってのもおかしな話だと。


移住を考え始めたんですよね。もう東京じゃなくていいよねって。


オンボロのバンを1台買って。


東京へ通える1、2時間の場所で、神奈川の葉山や湘南方面。


山梨だったら小淵沢、白州。それから伊豆半島とか。


その辺は何年かかけて旅をしていろいろ探しました。


でも、どこも出来上がっていて。


有名な商店街の一角に間借りするような窮屈さを感じるようなのは嫌だねと。


1からやりたいのに。


で、結局たどり着いたのが勝沼!とにかくご覧の通り無垢な場所で。


葡萄や桃やワインでは知られていますけど、言ってもこの環境で。


僕は“山梨のガラパゴス”って呼んでいるんですけど。


どうして残ったのか?ここだけが。隣町行くと全然違うんですよね。


この街だけがポコッと残ったミラクルに惚れ込んだというか。


ここならゼロから自分達が始められるんじゃないかと実感して。


なんのツテもなかったんですけどね。」

初めて勝沼を知ったきっかけは?


「子どもが生まれる前、嫁の誕生日にどこか行こうって話になって、意外に近くに面白そうな所があるって見つけてきて。


来て、びっくりしちゃって。


調布から1時間、80キロしか離れてないんですよ。僕ら多摩好きで。多摩の延長みたいな感じで来れて。


『ぶどうの丘』というシンボリックな場所があるんですよ。


丘の上にね。温泉があって、宿泊施設があって、地下にワインカーブがあって。


千円位払って入ると、3百種類くらいのワインが飲み放題。


車で行くと何もすることがないので、ずっとそこにいて、ずっと飲んで。


レストランがあって、誕生日だから予約したら、夕日が見える席を用意してくれて。


選んだワインを飲んで、温泉に入って寝ただけなんですけど、すごく幸せな時間を過ごせて。


シンプルに心地良かったんですね。


しばらく忘れてて、いろんな場所で移住先探し続けてるうちに、結局、ふっと勝沼ってあるなって。


それ以来、何度か通って。


だんだん勝沼への思いが強くなってきてって感じですかね。


移住先を勝沼って決めてから、試しにネットで検索してみたら拍子抜けするくらいあっけなくポーンと条件に合う家が出てきて。


えー?こんなに何年もかけて探したのにって。


今のこの家の前に住んだ賃貸なんですけれど。


コンビニの裏の一軒家で110平米あって、2階に4部屋あって。


1階は20畳以上のリビングに1階2階にトイレがあるお家で。


屋根付き駐車場もあって。月5万ですもんね。


電話したら空いてますよって言われて。」


それは、いつ頃なんですか?


「2011年の2月のことでした。」


東日本大震災の直前ですね?


「そうなんですよ。3月15日が入居予定日で。


11日に東京で震災に遭って。15日の朝に原発が吹っ飛んで。


これはやばいって言って。


とにかく逃げるぞってキャンプ用品ぐらいを車に積んで、せがれを毛布にくるんで車に乗り込んで。


勝沼まで逃げてきて。


それもあって、呼ばれた感も強くて。」

買った物はほとんどない
仲間のサポートで 作れらた
手作りのお店

「勝沼は子連れで行けるご飯を食べるところがないんですよ。


勝沼っぽくて、ワインがあって美味しい食事ってなると、赤ちゃんを連れて行けない雰囲気なんですよ。


あえて行けるのはファミレスぐらい。


わざわざ勝沼まで来てるのにファミレスで食べてる自分達は何だ?と思って。


だったら子どももウェルカムなお店をやりたいってのが根本にあって。


一旦は賃貸に住んだんですけど、いつも店を開く場所を見つけるアンテナは張っていたんですね。


元々、永住するつもりでここに来たので。


幸運にも数ヶ月後に、今のこの場所が見つかって。


ここら辺は、“組”ってのがあるんですよ。自治体みたいなものです。


当時の組長さんがこの家を持ってて。


正直、僕らの所持金を伝えて譲ってくださいと頼み込んで。


全財産を叩いて、ここを手に入れて。


あとは、融資で何とかやれるかなと手続きをしたんですね。


書類も通って、大丈夫だろうって話になって。


最後に担当者が場所だけ確認しますってここに来たら、これじゃだめですって。


ここは商売にならないと。


あなた東京の人だからわかんないだろうけど、山梨は広い街道沿いに広い駐車場作って大きい看板出さないと、こんなわかりにくい、入りにくい所で飲食店なんて絶対に人が入らないって言われて。


プチっと切れちゃって。


絶対って言ったね?悪いけど、あなたのような人が僕のお客さんになるとは思ってないんだと。


僕のお店が面白ければ、這ってでも来てくれる人がいるはずだ!話にならないって、決裂してしまって。


後から、あ~、失敗したな~と後悔ですよ。


お店の工事は始まってるし、困ったなって。


友達の大工に、すまない、金が借りられなくなったから、とにかく安くあげるしかないって頼みこんで。


毎月1回、富山からトラックに乗って来てくれて。


翌月までに僕らが壁貼ってみたいなことを繰り返して、ようやくこの店を建てたんですよ。


恥ずかしい話なんですけど、入ってる保険で借りられる契約者貸付みたいので全額借りて。


材料分だけ支払って。交通費も出てないです。一生かけて恩返しするねって言いながら。


まだ何も出来てないですけどね。


このテーブルにしても、トイレのドアにしても貰ったものばかり。」

「このドアは、“ランチ”のOKURAって店舗を一緒に作った仲間のお手製の物で。


そいつはムサ美(武蔵美術大学)の木工(科)を出てて器用ってのもあるんですけどセンスも良くて。


つなぎを着て、ポケットにドリルとか色んな道具をぶら下げて出社して来て。


会社で、ここに棚欲しいんだけどって言ったら、流木とか持ってきてガガガって作っちゃうような面白いやつで。


金はないけど手伝ってもらえないかって頼んだら、面白そうですね、行きますよって話になって。


廃材でも何でもいいから面白い物をキープしといてくれって頼んで。


このお店はそうやってみんなにもらった物ばかりで出来ているんです。買ったものはないくらいで。


そういうご縁で、人のおかげで成り立ってるお店なのかなと。」

人の密度は少ないけど、
出会いの密度は濃い

昨日のイベントもお仲間の若尾さんのご協力で大盛況でしたしね。


「そうそう、彼はワイン屋さんで、葡萄も作ってて観光農園もやってて。


東京でバイトしながらずっとミュージシャンをやっていて。


奥さんの実家が勝沼で結婚を機にこっちに移住してきて。」

↑左が『マルサン葡萄酒』オーナー若尾亮さん。

東京で知りあったんですか?


「こっちで知り合いました。


出会いのきっかけはバンドのグレートフルデッド(笑)!


僕の車にデッドのシール貼ってるんですけど、この界隈で見かけてずっと気になっていたらしくて。


ある日、彼がグレートフルデッドのバンドTシャツを着て声かけてきてくれて。


お互い、顔見合わせて。


グレートフルデッドのロゴを指しあって、これ好きなんすか?好きなんすか?って。


そんなんで仲良くなって。


ここは、人の密度は少ないけど出会いの密度が濃いというか。


同じ波長の人に会いやすいんですよ。


弱くても電波を出しとけば、障害物がないんで届くんですよね。


ゆるーくでも広く遠くまで。


僕は東京の方が人に出会いやすいって思ってたけど、意外に逆だなって。


強い電波でも障害物があったらもう超えられないじゃないですか。


東京は本当に障害物だらけで。


すぐ近くに面白い人がいても気づかない場合が多い。


こっちの人はね、いい意味で出会いに飢えているから。


そうすると、話だけでも伝わってきて。


こっちに移住するのに一番不安だったのが音楽をどう楽しめるかってことだったんです。」

sunking cafe楽器

↑『SUNKING Cafe』の店内にはたくさんの楽器が。



「音楽仲間ができるのか、バンドなんかできないんだろうなって思ってたら、むしろそっち系の仲間が集まってきてくれて。


取り越し苦労だったというか。


やっぱり自分の直感を信じて動けばちゃんと開かれるんだっていうのを実感っていうか。」

“SUNKING”は“Thankig”?。
誰かの人生に火を灯すような
お店になれば

卓さんが今まで“豊かさ”について感じてきたか、“これから豊かな暮らし方”についてどうお考えかを教えていただけますか?


「自分の人生を考えた時に、自分に疑問を持たないことをやり続けることですかね。


疑問を持ちながら洋服を作ったってカッコイイ洋服作れるわけないと思うんですよ。


迷ってない人が作ったほうが、やっぱりいいものを作ると思うんですよね。


自分は変に生真面目というか、全部が自分で裏付けというか、説明できないとダメで。


そうしないと、人に対してこれが僕の提供できるサービスです、ようこそいらっしゃいませって胸を張れないので。


そういう意味では、僕の場合こういうお店だったのかなと思うんですよね。


だから、もちろん飲食はうちの核なんですけど、音楽系のイベントを開いたり。


最近はライブハウスみたいになってきちゃったからワイン会とか飲食系のイベントをもっとやろうとか。


単に“飲食店”とか、“ライブハウス”ってくくらない。


お店ってステージだと思うんで。『SUNKING Cafe』という小っちゃなステージで表現していく中に、飲食があるし、自然に音楽が生まれたり、人と人が繋がるコミュニティルーム的な要素も入ってくる。


それは僕がそうしたわけじゃなくて勝手に動き出すというか。


自分達でプランニングして作ったけど、出発したらもうコントロールしていない。


簡単に止められないし、座礁して沈まないように、出来ることは舵取りだけなんですよ。


本当に船みたいなものですよ。


先のことはわからないし。だから、あそこに行こうって言うより、むしろあそこにだけは行かない、こういう事はしないってことだけ決めて進んでいくのに精一杯。


でも自分の心に嘘をつかずにというか、自分が信じるままに航海していくと、その船を面白がって乗ってきてくれる人がいるみたいな。」


だから大きな道路に面しなくても人は来る!!


「そうなんです。


それはもう、言ってみれば融資のプロ達は考えもしなかったことをやってるってことだけは事実じゃないですか。


いい悪いは別ですよ。


僕らのようなやり方の店には貸せないっていう常識を覆してやりたいというのもちょっとどっかにあるのかもしれないですけど。


大儲けしたいわけでもないし。


継続していく、ここで生きていって、ここから何かが生まれればいいな。


そういう思いのほうが強くて。


最近始めたイベントのひとつにセッションナイトってのがあって。


音楽の好きな人が集まってここでセッションする。誰かがピアノを弾き始めたら、違う人がベースを演奏し始めたりして。


全然弾かないまま10年以上眠っていたギターを持ってきた人のメンテナンスから始まった日もあったし(笑)。


それをきっかけに、その人が、またギターを始めれば、それは面白いし。


ここができたおかげで、誰かの人生に何か、大げさに言うと火を灯すような。


何かが始まるってことがあるといいなと。『SUNKING Cafe』を開いた甲斐があるなという気持ちはすごい強いですね。


特別大きいことをやろうとか、名を売ってやろうって気持ちはもうことさらないので。


特に僕ぐらいの年齢だと、自分が楽しんで、周りの楽しそうな顔を見れるのが本当に丁度いいので。


欲がないわけじゃないけど、金とか、名誉じゃない事は確かなんですよ。


その代わり、夢がどんどん出てくる。大きい小さいじゃなくて。


お金で買えないものがやっぱりあると思っているので。


人それぞれ実感するステージってのは違うんでしょうけどね。


僕は“この場所”なんだなっていうのをすごく感じていて。


宣伝も全然しないけど、ここを面白がってくれる人が、ここを好きそうな人に声をかけてくれて、また面白い人が集まってくる。


こういう時代だからこそ、そこはアナログにやっていく方がいいかなと思っているんですけどね。


経済の話は常につきまとうんで、売り上げがあるとかないとか、それはそれで大変なんだけど、とにかくやり続ける事が目標だし、夢だし。


それが自分の豊かさなのかな。」

インタビューも終盤、表に目をやると、壁一面の大きな窓のむこうで夕暮れの空が赤から紫、そして青へとグラデーションに変化していく。


日々、刻々と変る太陽の美しさを感じられるお店、だから“SUN KING”?と思いきや、店名の由来は、卓さんがアクセサリーデザイナーとして活動する時の屋号からきてるとのこと。


でも、お話を伺って、“サンキング”には、ダブルミーニングで“Thanking(=感謝)” の意味も込められているんじゃないかと勝手に推測してしまった私(発音的には全く別の言葉なんですけどね!)。


多くの仲間に愛され、支えられ、人のつながりと感謝のスパイラルで回っている素敵なお店。


正に卓さんご自身の生き方が表現されたステージ。


きっとまた今日も卓さんの発する電波をキャッチした愉快な仲間達が集まってくることでしょう。


どんな出会いがあって、どんなことが起こるだろう?楽しそうな表情でオープンの準備に入る卓さん。


何かピピピと感じたあなた、都内から1時間半の“山梨のガラパゴス” 勝沼の畑のど真ん中に佇む『SUNKIN Cafe』に足を運んでみてはいかがでしょう?


きっと卓さんが笑顔で迎え入れてくれるはずです。


卓さんsub1

Profile

SUNKING Cafeオーナー

上村卓也さん

SUNKING Cafeオーナー

上村卓也さん

富山県出身。

10代よりアパレル関係の仕事一筋に歩む

初めてのインド〜サンフランシスコ体験で精神的ターンオン。

以降10年近くにわたって完全裸足生活を実行。旅先で集めたターコイズなどの石を使ってアクセサリーを作り始め、同時に彫金技術を学ぶ。

1997年、独立。ハンドクラフトシルバーアクセサリー“ SUNKING ”をスタート

2011年 、富山、東京に続く第3ステージとして山梨県の勝沼町を選び移住。

2013年、『 SUNKING Cafe』をオープン。

Takuya Uemura's
FAVORITE TIPS

PEOPLE

ジェリー・ガルシア

グレートフル・デッドの中心メンバー。生き様そのものなので。

ヒッピーのアイコンでもありますけど、既成の生き方からどれだけドロップアウトできるか。要はみんな負けちゃうんですよ。大きな力とか。テレビをつければCMはみんなを不安にさせるし。火事になりませんか?大丈夫ですか?

癌になったらお孫さんがかわいそうですよね?

歯が白くないとおかしいですよとか。

ってみんな不安にさせて。

とにかくみんながこのままじゃいけないんだってものすごい脅迫の中で生きてるから、スイッチをオフった瞬間に今の自分でいられる。

その何とも比べない、誰とも競わないっていう、考え方にさせてもらったのはやっぱり、ジェリー・ガルシアやグレートフルデッドだったりする生き方。

何とも似てない、誰とも違うんだけど、気がつくとすごくファンがいて。

ジェリーガルシアの家に遊びに行った人の話を聞くと、すんごいビバリーヒルズの豪邸地区に、ぽつんとちっちゃな木の塀もない一軒家で。

でも億万長者じゃないですか。だけどそんな片鱗も何もなく。

ただ、リトアニアのバスケットが92年のバルセロナオリンピックにお金がなくて出られないって時に寄付したのがデッドだったんですよね。

だからリトアニアの選手のユニホームってデッドのタイダイで。

チベットの問題だったりとかそういうところにもどんどんお金を使ったり。

お金なんて、ただの道具だってスタンス。目的ではなく、結果だって。

目的は、音楽を楽しむことだったり、人と人が繋がることだったり。その結果で多少の利益をいただくことに対して、何の負い目もなくやれるスタンスというか。それがないと多分たくさん持ってる人が成功者になっちゃう。そんな成功事例には全く興味がないと言うか。

グレイトフル・デッドのショーのバナーにあった有名な言葉。

『彼らは他の誰よりもうまくやれることをやっているのではなく、他の誰にもやれないことをやっているのだ。』

これがSUNKINGのベースであることは間違いありません!

PEOPLE

ジョン・レノン

“平和の戦士”、“イマジン”って感じのジョンじゃなくて、薬に溺れて自分のストレスが中で爆発していて、コンプレックスといろんなことに苛まれてるジョン。そこからにじみ出る、脂が出てきた様な音楽とかが好きなので、ビートルズですね。

MUSIC

『ハート オブ ゴールド』
ニール・ヤング

心の黄金を求めて旅をしてそして年老いていく。人生は旅なのだなって思ってずっと歌ってましたしね。